私のセクハラ労災認定訴訟

2011年7月30日(土)に行われた「やめない!負けない!あきらめない! 女性労働者の集いパート9 尊厳をもっ て生きるために! つながろう女たち!!」より、セクハラ行政訴訟で認定を勝ち取りました原告・佐藤かおり(香)作成の当時の報告をご紹介します。

私のセクハラ労災認定訴訟

私の周りには、いつも笑顔がありました。私の心の中にも笑顔がありました。
親しい友人や同僚とお腹がよじれるほど笑ったり、恋愛話で盛り上がったり、音楽が大好きな私は、その日の気分で曲を選んで好きな音に囲まれて、いつも、 部屋には花を飾っていました。仕事も大好きでした。新人研修のインストラクターになってからは、益々、仕事に没頭しました。これが、私の35歳までの人生 です。

でも、上司から「お前のことが気になる。」と言われたあの日から私の人生の色が失われていきました。
「愛している」というメールを目にした時の動揺を今でも覚えています。私の手に唇を押しつけてきた時の逃げ場のない恐怖も消えることなく脳裏に焼き付い ていいます。上司から逃れるためにインストラクターを降りる時、目にした研修室には、研修生が、一生懸命仕事を覚えるために、付箋をたくさんつけたパソコ ンが並んでいました。一緒に頑張ってきた研修生と過ごした時間が遠ざかっていきました。

それまで、友人たちとの付き合いや仕事に夢中になっていた楽しい時間が、上司をどうやり過ごすかという時間に費やされていきました。

「セクハラ」という言葉は、知っていましたが、解雇になるかもしれないという不安の中、上司からうまく逃れることばかりに追われていた私は、当初、上司 の言動と「セクハラ」という言葉が繋がりませんでした。インストラクターとして一緒に仕事を組み、上司のことを相談していた同僚に、「ねぇ、これってセク ハラだよ。」と言われて初めて「セクハラ」という言葉を意識し始めました。

私の異変に気付き、同僚に勧められるがまま初めて行った心療内科では、「適応障害」「強迫性障害」「抑うつ状態」と病名がつきました。

やがて、「セクハラ」は、嫌がらせに変わっていきました。「セクハラ」によって、インストラクターを辞めたのは、辞めることで加害者から自分を守ること ができると考えての判断でした。でも、事態は変わらず、加害者からの執拗な内線電話や私の席にやってきて、パテーション超しに私を覗き込んでいる加害者の 目。いつも監視されているような毎日が続きました。精神状態は悪化していきました。でも、生活のためには仕事を辞めるわけにはいかないと必死でした。

思い余って、勇気を出して、派遣会社や派遣先にも相談しました。何の対応もされませんでした。それどころか、派遣会社に相談した数日後、事務手続きをしていた派遣会社の担当者に「支店長が佐藤さんのことを正直者は馬鹿を見る」って言っていたよ。と言われました。

退職をする頃には、仕事にも集中できず、乖離が始まっていました。記憶のない中、買っていた「ナイフ」や「ロープ」。出勤できない日が続きました。有給もなくなって、派遣会社からは、「病気で入院する以外の欠勤は認めない」と言われていました。

精神的に追い詰められていく中で、今でも鮮明に覚えている景色があります。真っ赤に染まった夕焼けです。「きれいだな」と思って見ていたのではありませ ん。もう既に、感情さえ失っていました。「二度とこの景色を見ることはない」と思って、最後の景色として目に焼き付けた夕焼けです。限界でした。

悪夢にうなされて、冷や汗で目が覚めて、体の震えがとまらず、ベッドで寝ることができなくなっていきました。堅いフローリングの床で体に痛みを感じなが ら浅い眠りについて、このまま、目を開けあけることがなければいいと思いました。でも、必ず、朝はやってきて、また、1日を生きなければなりませんでし た。大好きだった花も音楽も消えていきました。部屋のカーテンも開けられなくなりました。男性との接触を避け、病院の待合室でさえ、男性の姿があると、車 に逃げ込み、時間になると携帯を鳴らしてもらって診察を受けていました。記憶のない時間が増えていき、生きることも辛くて、死ぬこともできない毎日でし た。

勤務先に相談しても対応されず、弁護士相談では「何の証拠もないので、あなたが傷つくだけだから裁判は勧めない。労働問題に関わっている弁護士も少な い。」と言われ、医療機関では、「なぜ、嫌だと言えなかったの?」「相談できる友人はいないの?」と問いただされました。労基署では、「セクハラの労災認 定は難しい」と窓口で説明を受け、助けを求めたあらゆる機関が私の目の前でシャッターを下ろしていきました。
その頃、病院の受付で目にしたのが一枚のカードです。セクハラの相談ができることを知って電話をしました。「北海道ウィメンズ・ユニオン」だけは、私を受け入れてくれました。真剣に私の話を聞いてくれました。

退職をして、団体交渉が始まって、民事訴訟、労災の申請。全てが、初めての経験でした。
「セクハラ」を受けた事実に戸惑い、自分が精神疾患になったことに戸惑い、自分の身に何が起きているかを受け入れることにも時間がかかりましたが、今度は、裁判や労災申請という自分には縁のないと思っていた未知の経験ばかりでした。

労災申請では、「事業主によるセクハラ相談システムは機能していた。同僚も上司をたしなめた」として不支給になりました。相談をしても何の対応もしな かったばかりか、「正直者は馬鹿をみる」「そんなに大変だったら、もっと相談をすればよかったのに」など言われ、会社の相談窓口を信用できるわけもなく、 利用する気にもなれず、形ばかりの相談窓口が機能していたと判断されました。

再審査請求では、心理的負荷強度が「Ⅲ」に修正されるも、発病前6カ月の間に相談をしていなかったとして棄却されました。出来事を即座に相談できない「セクハラ」という性暴力への理解がされず、さらには、その後も続いた出来事をバッサリと切り捨てたものでした。

私の日記には、「傷病手当が切れたら、どうやって生活をしていこう」「障害年金が受給できなかったらどうしよう」という生活の不安が何度も記されていま す。安定した環境で治療に専念することもできず、週に1日か2日、それも数時間のアルバイトをしては倒れ、安心とは程遠い生活を余儀なくされました。

2007年からの闘いは、期待とあきらめの繰り返しでした。裁判所も労基署も私には得体のしれないモンスターそのものでした。だから、「当事者S」「原告S」という名前で私は自分を守りました。理解がされない環境や状況に自分の身をさらすことが怖かったからです。
でも、消えませんでした。私の中の「なぜ?」という疑問が消えなかったんです。通院先では、生活保護やデイケアを勧められるほど精神状態は悪化していま した。セクハラによって、働く権利も奪われ、生活も困窮し、買い物をするのもすぐに逃げられるコンビニで済ませるような生活を送り、「なぜ、労災保険が適 用にならないの?」という疑問です。

行政訴訟については、大変悩みましたが、傷つき諦めてきた中でも踏み切れたのは、私の中にあった、その「なぜ?」という心の声を打ち消すことができなかったからです。

そして、もう一つ、同じようにセクハラ被害当事者の方々との出会いが私の力になりました。一人じゃないという思いが、諦めないという気持ちに変わっていきました。

2011年3月、裁判は、原処分庁が労災の不支給決定の変更し、事実上、労災が認められる結果となりました。

この間、厚生労働省が「精神障害の労災認定の基準に関する専門検討会」で、「セクシュアルハラスメント事案に係る分科会」を設け、セクシュアルハラスメントが積極的に労災認定されるように基準の見直しが始まりました。
分科会の最終日、祈る思いで傍聴席に私はいました。提出した要望書の内容が盛り込まれて行く様子を目の当たりにしました。心が震えました。何度も涙がこみ上げてきました。
労災申請の2年の時効の壁や労災指定病院の精神科や心療内科が少ないなど課題は、まだまだありますが、要望書の多くが盛り込まれた報告書は、当たり前に労災保険が適用される道へ繋がる第一歩だと思っています。
さらには、分科会の最終日を前に、厚生労働省のホームページで労災の申請書がダウンロードできるようになっていました。労基署の窓口で門前払いされることなく、郵送での手続きが可能になりました。

私は、最後の分科会を前に、「セクハラで労災申請を」というシンポジウムを開催しました。そして、80名近くの参加者を前に、私は、「原告S」「当事者 S」という名前を卒業しました。テレビの取材も入り、実名と顔出しもしました。この裁判が始まってから、「Sさん」と呼ばれることに私は違和感を覚えてい ました。
私にとって、今では裁判所も労基署も、もう恐ろしいモンスターではありません。自分の心のサイズに合わない「Sさん」という衣は必要ないと感じていまし た。そして、ある当事者が言った「セクハラに遭って以来、自分がこれまで、そんな風に生きてきたかわからない」という言葉や「暗闇の中で、どこに出口があ るかわからない。」という言葉を聞いた時、「大丈夫だから、大丈夫だから。その日は来るから」と伝えるためには、やっぱり「Sさんじゃダメだ」と思いまし た。これまでにも色々な集会などで発言をする機会が何度もありました。最初の頃は、自分の被害状況を話すことで精いっぱいでしたが、今は、出会った被害当 事者と共にいるという思いで発言をしています。今もそうです。
そんな思いが重なって、自分の言葉で「私は、佐藤 香です。」と実名をあげました。そう言い切った時に、佐藤 香としての人生が動き始めていることを体中で感じました。

2003年から2011年まで、長い長い闘いでした。自傷行為やOD、摂食障害、乖離、その全てを経験しました。「セクハラ」で自分の人生を奪われたと思ったこともありました。
でも、「セクハラ」の理解がされないがために負った心の傷や、いまだに消えない自傷行為の傷跡も全てが自分の人生だと今は、受け止めています。死にたいほど苦しくても生きることを選んだ私の人生です。

初めて、北海道ウィメンズ・ユニオンの函館の事務所で相談をした時に感じた安心感を忘れません。帰りの車の中で「わかってくれる人がいた。もう少し、生 きてみよう」と自分に言いました。団体交渉や民事裁判、行政訴訟に至っては、提訴に踏み切ることを決めたのが、時効になる当日でした。弁護士も決まらない まま、支援者の方が裁判所に走って下さったことを後になって知りました。私の思いに寄り添い支援をして下さった方々がいたから闘えました。
支援をして下さった方々に伝えたい言葉があります。抜け道のない不安の中を生き抜いて、今、私は、しっかりと自分の足で自分の人生を生きています。そう 実感できたのは、どんな時も私の心の力を信じてくれたからです。心がさまよい、足元がおぼつかない時には、松葉杖のような存在でもありました。

労災の認定がされるまで、私の場合は4年かかりましたが、絶対に時代は変わることを私は信じています。だから私は、これからも諦めません。

今まさに、闘いの中にある被害当事者の方々に伝えたい言葉があります。一人で抱え込まないでください。決して、一人ではありません。私は、一人一人の声が大きな力になることを確信しています。だから、「一緒に」「共に」繋がりたいと思っています。

かつて、生きることに疲れ果てて目に焼き付けた「夕焼け」のように、今、私は、きっと忘れないだろうと思う景色があります。今年の春に見た「桜」です。 春の匂いを思いっきり吸いこんで、心の底から「本当にきれいだな。」と見上げた「桜」です。感情を麻痺させなければ生きてこられなかった私の人生が色を取 り戻し始めました。

最後に、小山さんに「言って」と言われたので報告をします。今年の秋に設立を予定していました「パープル・ユニオン」を8月26日、826(パープル)の日に、設立をすることになりました。「共に」という言葉を心に刻んで、私は、これからも明日を信じて歩いていきます。

支えてくださった方々に心から感謝して、これで私の報告を終わります。ありがとうございました。

当日は、長きにわたって厳しい道のりを闘いぬいた、原告・佐藤香さんの心に沁みる報告内容に、会場内では涙をぬぐいながら発言を聴き入る参加者の姿も見受けられました。
セクハラは暴力です。これからもっと社会への関心・理解が広まり、暴力を許さず、そして悲しくも被害に遭われた方がこれ以上苦しむことのないよう、同時に当事者の方々に配慮ある社会になるよう、私たちひとりひとりが意識を変えていくことが必要と痛切に感じました。