プロフィール

1967年11月16日、北海道稚内生まれ、函館育ち。國學院大学北海道短期大学部国文科卒業。医療現場に7年間勤務。同時に司会業15年。派遣社員として勤務した大手通信会社でセクハラ被害に遭う。2010年セクハラ労災行政訴訟を起こし勝訴(2015年)。セクハラ労災の認定基準見直しのきっかけとなる。

2011年からNPO法人全国女性シェルターネット所属。同年パープル・ユニオンを設立。DV被害女性支援、子どもサポート、東日本大震災支援等に携わる。2016年参議院議員選挙東京選挙区で無所属として立候補。落選したが、6万票を超える得票を得る。

所属など:元NPO法人全国女性シェルターネット事務局長、パープル・ユニオン執行委員長、女性と人権全国ネットワーク共同代表、性暴力禁止法をつくろうネットワーク運営委員

私のセクハラ
労災認定訴訟

セクハラからパワハラへ

上司から「お前のことが気になる。」と言われたあの日から、私の人生は大きく変わってしまいました。

「愛している」というメールを目にした時の動揺を、今でも覚えています。私の手に唇を押しつけてきた時の逃げ場のない恐怖は、消えることなく脳裏に焼き付いています。それまで、友人たちとの付き合いや仕事に夢中になっていた楽しい時間は、上司をどうやり過ごすかという時間に変わっていきました。

解雇になるかもしれないという不安の中、上司から逃れることに追われていた私は、当初上司の言動と「セクハラ」という言葉が繋がりませんでした。上司のことを相談していた同僚に、「ねぇ、これってセクハラだよ。」と言われて、初めて「セクハラ」を意識し始めました。

私の異変に気付いた同僚に、勧められるがまま初めて行った心療内科では、「適応障害」「強迫性障害」「抑うつ状態」と診断されました。

やがて、「セクハラ」は、嫌がらせに変わっていきました。執拗な内線電話や、私の席にやってきてパテーション超しに私を覗き込む加害者の視線。いつも監視されているような毎日が続き、精神状態は悪化していきました。でも、生活のためには仕事を辞めるわけにはいきませんでした。

苦悩の日々

勇気を出して、派遣会社や派遣先にも相談しましたが、何の対応もしてもらえず、逆に「正直者は馬鹿を見る」といったことさえ言われました。

退職をする頃には、仕事にも集中できず、乖離が始まりました。出勤できない日が続き、有給もなくなって、派遣会社からは、「病気で入院する以外の欠勤は認めない」と言われました。

悪夢にうなされて、冷や汗で目が覚めて、体の震えがとまらず、ベッドで寝ることができず、堅いフローリングの床で、浅い眠りにつく日々が続きました。このまま朝がやってこなければいい、目を開けたくない、そう思いましたが、必ず朝はやってきて、また1日を生きなければなりませんでした。部屋のカーテンも開けられなくなり、男性との接触を避けるようになりました。記憶のない時間が増えていき、生きることが辛く、けれど死ぬこともできない毎日でした。

弁護士に相談した時には「セクハラだとする証拠が何もないので、裁判は勧めない。労働問題に関わっている弁護士も少ない。」と言われ、医療機関では、「なぜ、嫌だと言えなかったの?」「相談できる友人はいないの?」と問いただされました。労基署では、「セクハラの労災認定は難しい」と窓口で説明を受け、助けを求めたあらゆる機関が、私の目の前でシャッターを下ろしていきました。

諦めないという決意

そんな時、セクハラの相談受付をしていた「北海道ウィメンズ・ユニオン」に出会いました。私を受け入れてくれて、真剣に話を聞いてくれたのは、ここだけでした。

この出会いから、退職、団体交渉、民事訴訟、労災の申請というたたかいが始まりました。もちろんすべてが、初めての経験ばかりでした。

労災申請では、「事業主によるセクハラ相談システムは機能していた。同僚も上司をたしなめた。」とみなされ、不支給になりました。まともな対応を全くとってもらえなかった形ばかりの相談窓口が、機能していたと判断されたのです。

再審査請求は、発病前6カ月の間に相談をしていなかったことが理由で、棄却となりました。セクハラ被害は、即座に相談することが難しい、ということが理解されていなかったのです。

裁判所や労基署では、私は「当事者S」「原告S」という名前を使っていました。セクハラへの理解が進んでいない環境に、自分の身をさらすことが怖かったからです。

けれど、そんな恐怖の中でも、たたかいを諦めなかったのには理由がありました。

私は、セクハラによって働く権利も奪われ、生活も困窮し、買い物もすぐに逃げられるコンビニで済ませるような生活を送っていました。それなのに、なぜ、労災保険が適用にならないのか。そのことに対する、疑問と怒りが消えなかったからです。

そして、セクハラ被害当事者の方々との出会いが、私の力になりました。一人じゃないという思いが、諦めないという気持ちに変わっていきました。

社会は変えられる

その結果、2011年3月の裁判において、原処分庁が労災の不支給決定の変更をし、事実上、労災が認められることになりました。

それから、厚生労働省が「精神障害の労災認定の基準に関する専門検討会」で、「セクシュアルハラスメント事案に係る分科会」を設け、セクシュアルハラスメントが積極的に労災認定されるように基準の見直しが始まりました。

分科会の最終日、祈る思いで傍聴席に私はいました。提出した要望書の内容が盛り込まれて行く様子を目の当たりにし、心が震えました。課題はまだまだありますが、要望書の多くが盛り込まれた報告書は、当たり前に労災保険が適用される社会への第一歩だと思っています。

私は、最後の分科会を前に、「セクハラで労災申請を」というシンポジウムを開催し、80名近くの参加者を前に、「原告S」「当事者 S」という名前を卒業しました。テレビの取材も入り、実名と顔出しをしたのです。自分の言葉で「私は、佐藤 香です。」と実名をあげたときに、佐藤 香としての人生が動き始めたことを体中で感じました。

2003年から2011年まで、長い長いたたかいでした。自傷行為やOD、摂食障害、乖離、その全てを経験しました。「セクハラ」で自分の人生を奪われたと思ったこともありました。

でも、心の傷や、いまだに消えない自傷行為の傷跡も、全てが自分の人生だと今は、受け止めています。

初めて、北海道ウィメンズ・ユニオンの函館の事務所で相談をした時に感じた安心感を忘れません。私の思いに寄り添い、支援をして下さった方々がいたから、諦めずにここまでやってこられました。

労災の認定がされるまで、私の場合は4年かかりましたが、絶対に時代は変わることを私は信じています。だから私は、これからも諦めません。

今まさに、闘いの中にある被害当事者の方々に伝えたい言葉があります。一人で抱え込まないでください。決して、一人ではありません。私は、一人一人の声が大きな力になることを確信しています。「一緒に」「共に」繋がることで社会を変えていきたい、そう思っています。